12月5日(日)ともの家「感謝のつどい」にて ~ 職員朗読 「コミュニケーション」 ~

理事 瀧戸恵美

   犬塚朱美

これからお話しするテーマは「コミュニケーション」
人間がこの世に生を受け、人との関わりの中で生きていく為には、コミュニケーションは必然的なものです。
しかし、仲間の中には、障害があることで、人との関わりに不便を生じている方が多くいます。
自分の意思や気持ちの表し方に独特な形がある為に、変な行動をする人と言う目で見られることがあります。また、障害を持たない側の伝え方に配慮が足りない事により、どうせ言ってもわからないでしょうと、説明や連絡をスルーされたり、気持ちを先読みされたりすることがあります。

「仲間たちの抱える生きづらさは、私たちの想像を遥かに超えたところにある」今日はそんな仲間の話を聞いてもらいたいと思います。

                                                                                     

Fさんのお話をします。Fさんは、様々な事情があって、6年間も家の中で、服を着ない生活をしていました。そのため外出もしていません。知り合いから、助けてあげて欲しいと声を掛けられ、自宅を訪ねた時の、素っ裸で腰に手ぬぐいを巻いた姿にはさすがに驚き、いまだに忘れられません。Fさん47歳、私たちとのお付き合いが始まりました。

「ともの家」の通所に至るまでも約1年掛かり、通所するようになってからも、事あるごとに、服を脱ぎました。
お付き合いが浅いので、服を脱ぐ理由に仮説を立てることが出来ず戸惑うことばかりでした。

そんな真冬のある日のこと。
この日は昼間から全裸になって、2階のシャワー室に籠城していました。裸になる理由がわからず、声を掛けると、大声をあげ抵抗するので、諦めるまで待とうと、私たちは見守ることにしました。
仲間が帰宅し17時、18時、外は真っ暗になっていました。引っ張り出そうとしても、抵抗する力が強くてどうにもなりません。結局、母親がタクシーで迎えに来たタイミングで、数人で引きずり出し、大きなタオルケットを身体に巻いて帰宅しました。
当時利用を始めたショートスティ先からは、問題行動のある人として、利用を拒否されました。全裸になることが問題であり迷惑なこととして片付けられたことが残念でなりませんでした。
なぜ裸になるのか本人にしかわかりませんが、お付き合いを始めて3年たったころ、理由のひとつを拒否のサインだと、仮説を立てることができました。
当時のFさんは否定語を全く使いませんでした。
「いや、やらない、行かない」確かに難しい言葉ではありますが、言語として獲得できなかったのか、獲得する機会を逃してしまったのだと思いました。

グループホームに入居したタイミングで、
私たちは、裸=拒否という仮説を基に、ルールを決め、本格的に関わり始めました。

ルール1
全裸生活はホームの自分の部屋だけとし、自分の部屋では好きなだけ裸になっていてもよいということにしました。裸は自分の部屋だけと覚えてもらうためです。逆に言えば、部屋なら裸でいていいんだ!という 「逃げ場」 という環境をつくりました。
登所しても服を脱ぐ仕草をしたら、すぐにホームに戻りました
この仮説が正解なのかどうかはFさんにしかわかりませんが、本人の意思を確認する術が他にない場合は、許される範囲で、こちらから仕掛けることが、意思確認には必要です。

裸になる理由がひとつとは限らず、医療面が原因とも考えられるため、病院への受診も並行して行いました。婦人科の受診では、子宮内膜症が発見され、生理時に起こる腹痛を軽減できる治療も始めました。

ルール2
「いや」「いかない」「やらない」の否定語を言ってもいいんだということを伝えました。
脱ごうとしたら「わかったよ」といって、拒否を認め、「いや」「いかない」「やらない」と、脱ぐ動作に言葉をつけて伝え続けました。
「いかない」「やらない」とう言葉を覚え、拒否が出来るようになり、受け入れてもらえるとわかったのか、服を脱ぐという行動は徐々に減り、今では全くありません。

Fさんは発語もあり、簡単な言葉の理解はあります。
「ともの家」に来てからは言葉の数も増え、一見言葉でのコミュニケーションが成立しているように見えます。
しかし、名詞だけを言語化し、動詞の部分は言いません。一語分しか獲得できないのか、言わないだけなのか、そこも不明ですが、私たちは、Fさんが成長の段階で、言わなくても親が代弁してくれたり、察してやってくれたり、その方が本人のためという道筋を与えてもらいすぎたことで、意思発信ができなくなったと推測しています。
親は一生懸命話しかけ、コミュニケーションを取っていたはずです。しかし、言葉を浴びせていただけで、コミュニケーションとはいいがたく、親や関わる人達の意思が強く働き、本人の意思とは違う方向に導かれてしまった。
結果、拒否=服を脱ぐ  この方法で表現するところまで追い込まれてしまったのだと思っています。

最近、もうひとつ獲得してもらおうと、試みていることがあります。

第2弾は名詞に続く動詞を増やすことです。
否定語「いかない」「やらない」は覚えましたが、動詞は否定だけではありません。言葉の世界が広がったことで、名詞が増えたFさんの意思をもっと導き出したいとの思いからです。

「あすなろ」「ちゅうしゃ」「あすなろ」「ちゅうしゃ」を繰り返すある日のFさん。
「いかない」「やらない」という否定語は使わないということは拒否ではありません。
コロナワクチン接種を3日後に控えていたため「注射は大蝶さんだよ」「今日じゃないよ」
「あすなろには行かないよ」と答えていましたが、どれも納得がいかないようでした。

そんな会話続く中、ふと以前あすなろの家に注射に行ったことを思い出し、
「あすなろの家にインフルエンザの注射を打ちに行ったことがあるね」と答えると「亨さん」と言ったのです。
「そうだね、亨さんとインフルエンザの注射を、あすなろの家に打ちに行ったことがあるね」と改めて話の内容を整理すると、そこには満足気なFさんの姿がありました。
通じ合った安堵感は双方にありました。そして思いが通じ合うことの素晴らしさをFさんが感じた瞬間だったと思います。

こうやって地道だけれど、新しいページを積み重ねていくことで、生きづらさや不安を和らげた。そんな思いです。
Fさん55歳。まだまだ人生の中間地点、本人の頑張りにも期待しつつ、根気強く第2弾を継続しています。

                                                                               

障害特性の影響で、過敏な行動が生じ、これを問題行動と捉えられてしまうことは、何もFさんに限ったことではありません。問題行動が頻繁に現れると、強度行動障害を引き起こした困った人と言うレッテルを貼られてしまうかもしれません。
仲間のみなさん全員が、日常のたわいもないコミュニケーションの中において、多かれ少なかれあり得ることだと思います。みなさん、コミュニケーションに困る人ではなく、困っている人なのです。困っているゆえに生きづらいのです。

コミュニケーションを話し言葉のみに頼っていると、彼らとの意思疎通はとても難しく、思いを見つけられないことがあります。

そもそもコミュニケーションは、伝えようとする側と、受け取る側の力量が必要で、さらに、お互いに通じ合いたいと思う気持ちがなければ成立しません。成立するためには、思いを解ってもらえる、思いが叶う環境が必要です。こんな環境があってこそ、不安なく穏やかに過ごせるものだと思います。

けれども仲間たちは自分の気持ちの伝え方に苦戦しています。
これは、認知機能の発達の弱さや経験・体験の乏しさに加え、応用することの苦手さや、情報の受け取り方を間違えてしまっている場合があります。また、感覚機能が過敏なため、受け取る側の情報が多すぎて混乱したり、受け取った情報が突出して、いつまでも気になったりします。

そんな彼らを目の当たりにし、私たち職員も苦戦します。何とか思いを聞き取るために、言葉の意味することやその使い方を探ります。また、言葉以外の感覚である「見る・嗅ぐ・味わう・触れる」などの方法を使って、彼らと共通の感覚をともにして気持ちを推し測ってみたりします。
さらに、本人にしかわからない感覚への創造力を働かせ、気持ちや行動の予想を立てています。

ひとりひとりのお付き合いの方法はけして同じではないため、39名の顔を思い描きます。

コミュニケーションを取る為の方法は障害の有無に関わらず、私たちも人付き合いの中で、少なからず試みていることではありますが、障害を持つ彼らはその発言や受信に独特さがある為、もっともっと繊細な配慮や気遣いが必要と言えます。

最後に「ともの家」の仲間に願うことは、人との関わりの中で、自分の良い所も弱い所も受け入れて、互いを認め合い、生きている日々に、楽しさや喜びを感じて欲しいということです。
当たり前のことなのになぜ難しいのか?難しくしている要因を取り除くことに力を注ぎたいと思います。
この世に生を受けて生まれ、同じ時代を生きる人として、支え支えられて、共に幸せに生きていけたら・・・

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